とこ

『親を越えて生きる』  

あの日から、10年の月日が流れました。ギャンブルに依存した23歳と薬物に依存した21歳の息子達の破綻した大学生活に金切り声上げていたあの日の私から…。

親のコントロールに何一つ逆らわず、よい子の2人の遅い反抗の姿がそこにありました。中学時代、親に反抗してたもう1人の息子はその反抗からも卒業して高校を出てすでに自立出来ていました。私は貴方達2人のような親不孝もして来なかったし、学生生活、就職、結婚、そして子育てと頑張ってきたのに貴方達のその無様な…反論があるなら言ってみなさい・・・。

依存症になった2人の息子は勉強が出来たので中高一貫の私学へ通わせ、良い大学、良い会社…小学生から塾へ通い、本人達の気持ちは枯渇しているのも何のその依存症という病気で倒れ込むまで叱咤激励していました。倒れ込んだ息子達に「親不孝者」と罵声まであびせていました。そして親も子も専門病院、施設、自助グループにたどり着きプログラムに出合いました。「何故?何故?」と言う私の長い長い自問自答の始まりでした。

白いものは白、黒いものは黒、勝つ事が善で負ける事は悪、一生懸命や努力と言う言葉が好き、自分に厳しく他人にも厳しい、ねばならないのはちまきはいつも締めていました。そんな私は何処から来たんだろう…。

私は3歳上に兄がいて、父55歳、母40歳の時に誕生した。父母は私達の前に何人か子供をもうけたが病気で亡くしている。新生児で亡くした子供の話はしなかったが、母には5歳と10歳で亡くした兄と姉の話は耳にたこの出来るほど聞かされた。亡くした時の辛かったこと、とても利発だったこと、可愛い容姿だったこと、神仏にお祈りして兄と私が元気に授かったこと、父はおっとりした(別の言い方をすれば頼りない)ぼんぼん気質の人だった。祖父は私の生まれた時には他界していた。祖母は小学3年生で他界した。祖母には叱られた記憶はあっても可愛がられた思い出はない。

子供のいなかった祖父母は父と母を養子と養女で迎えた訳で、当時経済的には比較的裕福なその家で、母は明治の人だった舅姑に仕え財産や家を守ることに大変で気丈で働き者で自分にも他人にも厳しい人でした。

私は幼い頃から「早く大人になって母が悲しむことはしてはいけない、安心させてあげなければ」と考えていたおませな子供でした。その一方で仲良しの友達の女の子の若くて優しいお母さんに憧れ、明日目が覚めたらかわってくれてたら嬉しいのにと思ったりしていました。

10年前、依存症になった2人の息子の話は母に出来ませんでした。高齢という理由もあったけど、私の中に「お母さん、こんな息子にしてご免なさい」と言う気持ちも正直ありました。息子達に「虐待に近い愛し方をしてご免なさい」と詫びる一方で母に「こんな風に育ってしまった私は今、苦しくて苦しくて、謝ってよー」と心の中で叫んでいました。

加害者意識や被害者意識や、恨みや後悔や一杯一杯の気持ちのトンネルをくぐり抜け、少し明るい方へ…。依存症になって心や体を傷付けてまで息子達の伝えたかったこと、個の大切さ、母の為でもなく子供の為でもなく、自分自身を生きること、100%の無力を感じ実践すること、本当に難しいことです。

1ヵ月後、春真っ盛りの日本を飛び出して南半球で秋を満喫する旅を目下計画中。

更に明るい方を目指して…飛び立ちたい。

母にさよならを告げ、親を越えて生きたい。

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