仲間の話 ヒロ

 僕が初めて精神科を訪れたのは19歳の時でした。

シンナーが止まらず、母親と父親に連れられ、収容に近い状態で保護室に入りました。退院後も1週間もせずにまた再使用。その頃の家庭の中は、父親がアルコールに長年依存していて、年中シンナーと酒の臭いが家の中に充満しているような状態でした。

 小さい頃から父親と母親のけんかが絶えず、姉と二人で夕食の後に祖母の家まで非難していたのを思い出します。朝、茶碗が割れて、おかずが飛び散った部屋を見ながら学校に重い気持ちで行った事もありました。

 中学校入学と同時に情緒不安定になり、非行も始まり、中2になる頃には登校拒否をするようになり、部屋にこもるようになりました。その頃は母親が息子を不憫に思い、息子の世話をする事で家の中もなんとか回っていたのですが、父親が酒を呑み暴れ、僕もそういう姿を見て育ったせいか、15歳位からは僕も母親や父親に暴力を振るうようになりました。そんな父と僕を、母は必死で支え続けていたのだと思います。

 母親が父親を連れて精神科に行き、父親はアルコール依存症と診断され入院し、診察室の中で僕の話が出て、僕も薬物依存症と診断され入院しました。それぞれが自助グループに繋がり、母親も家族のグループに繋がりました。家族全員分のカルテがその病院にはあります。でもその頃が家族全員の転機だった様な気がします。

 それと同時期にダルクが九州に出来て、僕自身、仲間との接点が少しずつ持てる様になりました。それからも仲間との人間関係でつまずく度、薬と母親の財布と存在を求め、家に帰っていました。

そんな中、母親が家を手放し、僕は生活保護を立ち上げ、本格的に施設での生活が始まりました。病んでいた家族がそれぞれの回復の道を歩き始めた時期だったのだと思います。一時期は酒飲みの父親と、家を手放してしまった母親を恨んでいたことがありました。恨んで人のせいにしていた方が、僕自身、自分の問題を見なくて済み楽だっただけなのだと思います。

 自分の問題を日々ミーティングで卸し、過去、家族との関係がどうであったか少しずつ見れるようになってきました。過去は、共依存の関係の中に居ることだけを必要としていましたが、今は怒ったり、遠慮せず笑ったり出来る関係に新鮮さを感じ始めているところだと思います。

普段会うことはないけれど、家族が旅行したり、自分のために楽しみを見つけて生活しているのを小耳に挟むと、今はそれはそれで嬉しく思ったりもします。いろいろ苦しいことも有るけれど、それぞれが自分の問題を見ていることが希望なんだと思ったりもしています。

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