仲間の話 くみ

 薬物を始める前から特に異性との関係では少々、生きづらい部分がありました。「相手からどれだけ愛されているのか」を、言葉だけじゃなく全力を尽くして行動で示してくれないと不安や疑いの中から抜け出せなくなっていて、相手を振り回し、無理な時間に呼び出すのは当たり前、自分で作り話をし、いかにも女が居るかの様に相手を問い詰めてみたり、実話でない話に逆切れし開き直る私でした。最終的には死ぬと言い出したり、今から死ぬぞという目付きで相手を見て脅していました。

今思うと「私ですか?」と言いたくなりますが、これ以上に受け入れがたい事も沢山あり少し恥ずかしくなります。もっと今よりも若い頃で、大人ぶって色んな意味で突っ走れたと思っているのですが、人を思う部分で小さな時から不安や恐れ、心配や嫉妬の中で生きてきたな~、と思います。

人の言葉や行動には敏感で、その中でも感が鋭く、傷付くけれど白黒、自分の目で確かめないと不安…。薬を使うようになってからは更に分かりやすく、相手に対する思いが依存的で脅迫的になって行きました。薬を使うと今まで以上に密着した関係になれた様な気がして、その関係にどっぷり浸かってしまい、相手が居なくなる事をフト考えただけで鳥肌がたつ様な思いで、私はそうなったら絶対に生きて行けない、生きる意味がない…と、居てもたってもいられない衝動に陥り、とにかく一緒にずっと居なければ…でした。

最初は傷をなめあう作業で、今まで持ち合わせている私の人との関係では、薬や相手との親密感でごまかしが効いたものの、そう上手くはずっと続かなくて一緒に居るだけでいい…じゃ物足りなくなっていき、いつの間にか相手をどれだけ思うか、相手からどれだけ愛されるか…返すと、どれだけ支配されるか、するかになっていました。

小さな頃、親からの愛情や親との絆の部分で不信感から傷になっていて、異性との関係でも素直に愛情表現する事も出来ないし、相手の思いも素直に受け入れることが出来ませんでした。自分自身や相手が傷付いても、Г人をどう愛せばいいのか…」という所まで、たどりつく事が出来ませんでした。

今はそんな自分も遠目に見て、きっと人を好きになることは嫌ではなかったんだと思います。そして、人を思う事以上に愛されたかったんだな~と思います。余計な物は手放して、人を思う部分でシンプルに育てていけたらな~、と今回振り返ってみて思いました。

仲間の話 ヒロ

 小さい頃から普通に人を好きになり、思春期に入った頃からも女性に恋愛感情も持つようになって、自分の中に女性に対する関係性の病気が有るとは思いもせず、今まで関係を繰り返して来ました。

十代の頃は無邪気な恋愛も有ったのですが、二十代後半からは恋愛で苦しむようになり、薬物を使いながらの恋愛は、惨々たるものでした。

 自分の中に人との関係の持ち方に問題があると感じ始めたのは、NAやDARCに繋がった後からでした。小さい頃から酒乱の父親と共依存の母親との関係の中で育ったせいか、女性に対するコントロールが酷かった様に思います。

 薬物使用が本格化してからは孤独でした。薬物ではもう埋められなかった心の隙間を、女性との病的な関係で埋めようとするのですが、長続きせず苦しむばかりでした。

 DARCに繋がり、地元を離れて他県でプログラムを受けることになり、薬を使わない生活の中で幾つものアディクションに苦しみました。依存対象を変えながらのクリーンでした。それも長続きせず、最後に警察沙汰になるようなトラブルを起こし、状況から逃げる様に薬を使いました。

その直後、女性の仲間の家に転がり込み、相手がどういう人なのか、自分はその人の事を好きなのか曖昧なまま、女性との共依存の生活が始まりました。生活自体は荒れ放題に荒れていたのですが、ただ側に居てくれる女性が居る事だけに執着していました。関係が近いと必ず僕は苦しむ、そう思いながら、もしかしたら、もしかしたら、うまくやれるかもしれない…と思いながらの生活でした。

しかし起こって来ることは嫉妬や暴力で、それからも逃げられない彼女の問題にさえ気付きませんでした。彼女自身今まで生きてきた中での人間関係の底付きを感じていたのだと思います。お互いが自分の人生を歩く事から逃げている後ろめたさが常に有り、周囲にも言い訳ばかりで、ミーティングに出る事さえ困難でした。

 そんな中、衝動的に二人で思い付いたのは僕の地元に行く事でした。夜逃げ同然で車に積めるだけ荷物を積み込み、仲間にも黙って住んでいた場所を後にしました。彼女の笑顔が段々無くなっていく事に僕自身不安を覚え、いつ僕の元から去ってしまうんだろうと、彼女の言葉ひとつ、態度ひとつに疑心暗鬼になっていました。

喧嘩して別れ話が出るたびに切れていました。彼女を殴り、その直後に土下座して泣いて謝る、それくらい関係は壊れていました。それ以前に築けていなかったと思います。

 間もなくして薬の再使用が始まり、ぼろぼろの状態で別れました。その時仲間に言われた言葉は、病的な関係ではじまったクリーンは、病的な関係で終わる、という事でした。仲間の中で少しずつ苦しみながらでも、自立した関係をこれから築いていく必要があるんだと言うことを気付かされた気がしました。                                       

 その後、彼女は地元に戻り、僕は刑務所に入りました。刑務所の中でも一番辛かったのは人間関係でした。初めて知った社会が刑務所だった気がします。

 その後、再度DARCに繋がり5年が経ちます。以前、仲間の中で、問題が有ると自分と向き合うことをせず、女性との関係に逃げていた自分を時々思い出します。仲間の中で傷付くことに臆病になっている自分も居ますが、人と居るのは大好きです。仲間が僕には必要です。

 今回、仲間の配慮で沖縄のNAのギャザリングに行くことが出来ました。真っ青な海と空の下で、仲間と過ごすことが出来ました。次は、何時の日かパートナーを連れて行けたらいいな、と思っています。

熊本市障害保健福祉課医師 R.I

『子ども再考』  

 消防署で労働安全衛生の話をする機会に恵まれました。消防・救急職員は、日ごろのストレスに加え、危険を伴う消火作業や悲惨な事故の救援活動によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の発症も多いと言われています。事故の場面を繰り返し思い出したり、不眠や悪夢に悩まされる、イライラして怒りっぽくなったりと、多彩な症状が見られます。兵庫県の調査では、殉職場面に遭遇した職員は、アルコールによってストレス解消する率が有意に高くなるそうです。話がアルコールやギャンブルに及ぶと、お互い突付きあって失笑する職員の姿がみられました。ところで、PTSDの原因となる場面で多いものに、子供の事故や、死の場面があると言われています。子供が自分の子供の年齢に近いと、そのストレスはさらに増します。その人にとってストレスの種類や強さは、その人の立場や年齢に応じて変化すると言うわけです。

 ひきこもりの相談は一時に比べれば減ったものの、ポツリポツリとやってきます。その中でも印象的なのは、子供の不登校や引きこもりで相談を受けているうちに、実はアルコール依存症だったお父さんの暴力に耐えかねたお母さんが、子供たちを連れて逃げ出すと、逃げた先で子供たちが次々と登校したり、アルバイトにいけるようになったりする例です。お父さんの底つきに加え、こんなうれしいおまけがついてくることもあります。こんなおまけつきでなくても、本人のため、相手が配偶者であれ、子供であれ、老親であれ、本人の底つきの重要さはわかっているのですが、家族を説得するときに、私自身以前よりエネルギーを使う気がします。

 「神さま、私にお与えください。自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを!」わが子が大きくなって、変えられないものがあることに改めて気づいて、受け入れることに四苦八苦しつつ、この言葉を肝に銘じています。どうしても同じ年頃の子を持つ母親に共感しすぎて、相談に多大なエネルギーを使ってしまいます。「そんなに後始末しては子供のためになりませんよ」何も考えずに言えていた言葉も、ちょっと重く感じます。正直、子供にまつわる相談が、現在もっともストレスです。胸突き八丁、ここを超えればもっと大きくなった私が・・・。 

とこ

『親を越えて生きる』  

あの日から、10年の月日が流れました。ギャンブルに依存した23歳と薬物に依存した21歳の息子達の破綻した大学生活に金切り声上げていたあの日の私から…。

親のコントロールに何一つ逆らわず、よい子の2人の遅い反抗の姿がそこにありました。中学時代、親に反抗してたもう1人の息子はその反抗からも卒業して高校を出てすでに自立出来ていました。私は貴方達2人のような親不孝もして来なかったし、学生生活、就職、結婚、そして子育てと頑張ってきたのに貴方達のその無様な…反論があるなら言ってみなさい・・・。

依存症になった2人の息子は勉強が出来たので中高一貫の私学へ通わせ、良い大学、良い会社…小学生から塾へ通い、本人達の気持ちは枯渇しているのも何のその依存症という病気で倒れ込むまで叱咤激励していました。倒れ込んだ息子達に「親不孝者」と罵声まであびせていました。そして親も子も専門病院、施設、自助グループにたどり着きプログラムに出合いました。「何故?何故?」と言う私の長い長い自問自答の始まりでした。

白いものは白、黒いものは黒、勝つ事が善で負ける事は悪、一生懸命や努力と言う言葉が好き、自分に厳しく他人にも厳しい、ねばならないのはちまきはいつも締めていました。そんな私は何処から来たんだろう…。

私は3歳上に兄がいて、父55歳、母40歳の時に誕生した。父母は私達の前に何人か子供をもうけたが病気で亡くしている。新生児で亡くした子供の話はしなかったが、母には5歳と10歳で亡くした兄と姉の話は耳にたこの出来るほど聞かされた。亡くした時の辛かったこと、とても利発だったこと、可愛い容姿だったこと、神仏にお祈りして兄と私が元気に授かったこと、父はおっとりした(別の言い方をすれば頼りない)ぼんぼん気質の人だった。祖父は私の生まれた時には他界していた。祖母は小学3年生で他界した。祖母には叱られた記憶はあっても可愛がられた思い出はない。

子供のいなかった祖父母は父と母を養子と養女で迎えた訳で、当時経済的には比較的裕福なその家で、母は明治の人だった舅姑に仕え財産や家を守ることに大変で気丈で働き者で自分にも他人にも厳しい人でした。

私は幼い頃から「早く大人になって母が悲しむことはしてはいけない、安心させてあげなければ」と考えていたおませな子供でした。その一方で仲良しの友達の女の子の若くて優しいお母さんに憧れ、明日目が覚めたらかわってくれてたら嬉しいのにと思ったりしていました。

10年前、依存症になった2人の息子の話は母に出来ませんでした。高齢という理由もあったけど、私の中に「お母さん、こんな息子にしてご免なさい」と言う気持ちも正直ありました。息子達に「虐待に近い愛し方をしてご免なさい」と詫びる一方で母に「こんな風に育ってしまった私は今、苦しくて苦しくて、謝ってよー」と心の中で叫んでいました。

加害者意識や被害者意識や、恨みや後悔や一杯一杯の気持ちのトンネルをくぐり抜け、少し明るい方へ…。依存症になって心や体を傷付けてまで息子達の伝えたかったこと、個の大切さ、母の為でもなく子供の為でもなく、自分自身を生きること、100%の無力を感じ実践すること、本当に難しいことです。

1ヵ月後、春真っ盛りの日本を飛び出して南半球で秋を満喫する旅を目下計画中。

更に明るい方を目指して…飛び立ちたい。

母にさよならを告げ、親を越えて生きたい。

熊本ダルク家族会  ゆめ

破壊から再生へ向けて    

家族には色々な形が有ると思います。私が家族と言う二文字を意識したのは、自分自身が結婚してからです。しかしそれと同時に、執着心も有りました。「私の家」、「私の家族」それは私の全てでした。 長女が産まれ世の中の幸せを勝ち取ったような優越感と、片一方では、これからの何かわからない得体の知れない不安とを抱え込んでいました。初めて産まれた女の子に、毎日の着せ替え、食事作り、掃除と、まるでマニュアルを渡された主婦のごとくこなしていました。それでもまだまだ私のパワーは十分あり、家族を支配していました。

長女も主人も、家の中では、とてもいい子供、いい主人としていてくれました。二つ違いで二女が産まれました。もともと器用な生き方が出来なかった(実際はすごく器用な人間と思い込んでいた)私は、長女と二女、主人と私、このバランスのとり方を身につける術もわからず、ただ日に日にヒステリックな妻、口やかましい母親へと変貌していきました。

朝起きると同時に、育児、炊事、掃除、洗濯に明け暮れていました。いつも病気に対する不安、潔癖症の私は、家の中はもちろん主人が帰ってきた時、ドアの外でほこりを払ってきて欲しいと思うほど神経質でした。子供には一日三回着替えさせ、子供の身体の異変には片時も忘れず気を配りました。私の身体はまだ20代のエネルギーで疲れを知りませんでしたが、心はそんな生活に明け暮れ、疲れ果て悲鳴をあげていました。

しかし、建築関係を営んでいた主人は、お酒を呑む機会や、泊り込みでの仕事もあり、それに若さもあってか、なかなか私の悲鳴は届きませんでした。私は伝え方を知りませんでした。口を開けば攻撃したり怒鳴ったり、お酒の力を借りれば、からんだり、意固地になれば、ひとり孤立したり、そういう日々の中で、私は精神と身体を壊していきました。しかしその頃は、そういった心と体のバランスのくずれ等、知るよしもなく、夫婦としての関係を切ることが、私を解放してくれる一番、最適なやり方だと思い込み、私は離婚を決意し主人と別れました。子供たちの気持ちはどこへ行ったのか、なぜその時ちょっと足を止めて考えてやれなかったのか、本当に申し訳なく思います。

 それから、長い年月のなかでいろんな事も沢山ありました。罵倒したり、憎しみ合ったりした日もありました。しかしそんな私たちに、また子供の親としての関係を見直させてもらう機会を与えてもらう事になりました。それは、二女の病気が始まりでした。高校一年に成長した娘は、摂食障害になり、そして薬物依存症にもなりました。

今、娘はある施設に居ます。私自身が生まれ育った家族の形、主人が生まれ育った家族の形、そして、主人と私が作り、壊した家庭、しかし、今私たちは、娘はある施設で、主人は他の家族会で、上の長女も今、自分の見直しに入っている所です。 私があの時、しっかりと握り締めた私の家族と言う名のカードは、あまりにも強く握ってしまったがために失くしてしまったけど、それぞれが、それぞれの場所で自分らしくあるために生きようとしています。 今、私は大好きなワンちゃんを握りつぶしてしまわないように思いながら、抱きしめて暮らしています。

ヒナ

 私の主人は薬物依存症で、共依存です。「はぁ、うまくいかないな~」と言うのが、ここ、1ヶ月の私です。頭も混乱し、解決できない問題が大きなことから小さなことまで立て続けに起こった。そうこうしてる内に今回のニュースレターの締め切りは過ぎてしまった。別の事で頭が支配されていて文章がまとまらない。でも、仕上げなきゃ~!折角、書かせて貰う事を与えてもらったのだから。

私は主人と別居して2年になる。この2年、問題が起こる度に思い出していたのはボロボロになって繋がって来た頃の自分の姿だった。主人の薬物問題を支えに支えた5年半、相談も出来る場所も知らずに一人で哀しいほどの孤独を感じていた。

子供を2人、連れて出ては来たが、「よし、がんばるぞ!」と言うエネルギーは当時の私には全く残っていなかった。私は5年半、間違っていたかもしれないが、私の全エネルギーは主人に使っていた。その行動が問題を助長し主人を傷つけていたかもしれない。

今から思うと、不思議な事がいくつか重なって私は施設に通所させて貰う事になって、1年5ヶ月になる。25年振りに40分の道のりを自転車で通うと言うおまけ付きだった。

初めの私のぶつかった壁は「自分の為に何かをする」と言うことだった。主人の為だったら惜しみなく全エネルギーを使えるのだが・・自分自身に目を向ける作業等しても何の見返りの愛も貰えないし、かつての私は自分が楽しんだりする事さえ無駄な時間だと思っていた。

私が勝手に壁にぶつかっている内に何故か司会をやってみる提案を貰った。断る勇気も無く、ぎこちなく司会をさせて貰った。私が出したテーマにそって仲間のそれぞれの話が胸に残るようなり、仲間の姿を見るようになった。少しずつ、心が開けるようになった。

主人が1年、薬を止めた頃から食事に行ったり少しずつ家族で関りを持ちながら新しい関係作りを始めた。すぐに上手くいくわけはなかった。施設には毎日、行くようになり自分と向き合い、自分自身を受け入れていく事を進めていった。失望する日の方が多かった。泣きながら帰る事も何度もあった。そのうち、無駄なことなど何ひとつないし、考え方、受け取り方なんだと思えてきた。

主人の薬物問題が無くなったら帰ろう!から、私が少しでも変われたら・・帰ることを与えられたら、それまでお任せだ!・・と思うようになった。絶対、帰るんだという強迫観念が薄れた時、主人が近くなった。

今、この原稿をうたた寝している主人の横で書いている。大きな問題も、起こった。でも初めて2人で問題の解決に協力して当ってみる事ができた。主治医の先生からは人を愛すること、尊重する事を仲間から学び、ミーティングを利用しながら成長しなさい!と言われた。素直に「はい」と言えた。私に出会ってくれた仲間や関係者の方々に自然と感謝の気持ちが湧く。絶望的な別居生活のスタートだったが、今はとてもお得な2年間だったと思える。

この頃、問題を解決する事に焦点をあて過ぎると、与えられてるモノを見失ってしまうのかも知れないなぁ~と思い始めた今日、この頃です。 これがゴールではないから・・・“ゆるり”と行こうと思う。 ありがとうございました。

仲間の話 くみ

『小さな記憶』  

子供を保育園に迎えに行った帰り、気分が良かったので遠回りをして川の方へ寄り道をした。少し歩くと川の真ん中が通れるようになっていて私は透かさず子供を引っ張り「秘密基地みぃつけた」と子供に戻った様にワクワクした。石を投げて遊んでいる私と子供…フト子供を見ると川の遠くを見て楽しそうにしている目は夕日に照らされて輝いて見えた。自分もこんな時期があったのかな?と思うと少し切ない感じもした。私の理想での妄想なのか現実に過去にあった事なのかわからないけど、私が子供時代に母と楽しく遊んでいる姿がフト思い浮かんだ。

小学校位の頃、よく母と妹と三人で海にドライブに行っていた。ドライブと言うよりも予定もなしに母はヤケになり運転していた様にも思えていた。暴力的な父への不満や怒り…母は運転しているにも関わらず先の見えない道を走っているかの様に不安げな表情だった。夕方、遅くなると母も慌てる様に帰り、また私も不安が毎度、襲ってきていた。

私達が三人で出掛けるのが嫌だったのか、父は帰って来ると機嫌が悪かった方が多かった。悪かった日に当たれば母に当たり散らし、一時は三人で出掛けられなくなる父からの支配的な命令だった。それ以外にもストレス解消の様に当たられる様な感じがしていて、自分という人間が段々、縮小していく様な気分だった。父親というよりも、ただ一緒に住んでいる憎くてたまらないクソじじいだった。そんな事が続いていた…気が付くと色んなことに敏感になっていた。母に男の人が居ると気付いてしまった。母達の部屋で探し物をしていると、母が男の人に書いた手紙があった。知らずうちに読んでしまっていた。書いてある意味が良く理解できてしまってショックだった。父と母に対する不信感が強くなった。母に聞く事もできない…聞いてしまえば真実になってしまうのが怖かった。自分が傷ついた事よりも聞いてしまえば母が傷つく心配もしていた。何もなかったかの様に母に接していた。

時間がたつうちに気にならない事も増えてきて、反抗期になり、自分の遊びで夢中になっていた。けれど、何か言われると、無意識のうちに溜まった怒りは爆発していた。怒りでしかもう伝える事は出来なかった。自分でどうしていいのかも、わからずにも家に居たくないことは確かだった。非行に走り薬物を使う様になり、母はそれを目撃すればヒステリックに怒っていた。薬物にだけでなく私の一つ一つの事に口を出されるのが嫌でしょうがなかった。まったく違う話に怒りをぶつけてきていた。父はそんな状況になっていることは、まったく知らない。母はそんな無神経な父にも腹がたっていた。こうして書いてみると、また色んな事を思い出す。嫌だった事、傷ついた事、そして最近は楽しかった事、嬉しかった事。

最初は親に対する恨みばかりが、なぜか仲間の話を聞いたり自分の話をしていると、「あっ私もそんな事あったな~」ときっかけになり、思い出す事も度々ある。自分にふたをしていた部分が心を開くと不思議と恨みばかりではなかったと気が付いた。少しずつではあるけれど…私は自分の親から愛されてないんだと思っていたけれど、自分が子供を育てていく中で大変さや親に対する理解も増えてきた。きっと私も完璧な母親にはなれない…上手くはやっていけない…きっとそれでいいんだ!時には自分の感情で子供に手をあげてしまう…私が親でごめんなさいと自分を責めまくる事も心の中であった。

ミーティングを利用させてもらったり、仲間に聞いてもらったりすると、徐々に子供の笑顔も感謝に変わってきた。「産まれてきてくれて有難う」「こんなママだけどヨロシク!」と。

共(キョウ)

元夫が薬物で10年ぶりにスリップしたことを期に子供2人と一緒に地元を離れて1年半になります。元夫との生活を振り返ると肩と首がカチカチになってきて、辛く感じます。

13年前、元夫の覚せい剤使用が分かり病院につなげる為、言葉に表せないほどの不安を抑えて懇願していたある日、元夫は家に帰って来た途端、家の中を転がり回り、自分の意思とは違って体が動き回っている状態になりました。近くの精神病院で応急処置をしてもらい、最終的に専門の病院につながる事が出来ました。この日から元夫の回復が始まって…、まさかスリップがあるなんて信じられませんでした。その後、何年間か元夫はアルコールを飲む事もなく順調に回復し、私が自助グループにつながれば、元夫もいずれはつながってくれると思っていましたが、なかなかつながらず、飲酒や眠剤の量が多くなり、スリップしてしまいました。元夫が以前と同じように変貌していく姿に恐怖と苦しみとでグチャグチャな気持ちがし、本当に無力を感じました。

離婚して新しい土地で子供2人を育てていかねばと、しっかりと生活を落ち着かせる為に元夫の記憶を心の奥に押し込めてフタをしました。でも、1年前に私がマッサージ資格を取得した頃から下の子の不登校が始まり、病院で診察してもらうようになりました。主治医にこれまでの経過を話す中で封印した記憶を思い出す事になり、私は前よりも不調になり、やる気が出なくて悩んでいました。

そんな中、薬物依存者のパートナーのミーティングで先行く仲間が変わっていく自然で前向きな姿を見せてもらったのがキッカケで、私は楽になりたい一心で、ダルクに通わせてもらうようになり、今、4ヶ月になります。ミーティングで勇気を出して前を振り返る事が出来るし、仲間の話の中から生きる希望をいつも持ち帰っています。

主治医の話も理解できるようになり、下の子の不登校で子供の気持ちを感じる余裕がない私に「下の子はお母さんの子宮に入りたいくらい寂しいんだね」と言われた主治医の言葉が、私がミーティングで自分の気持ちに目を向けるようになった頃、分かりました。上の子が凄い勢いで攻撃する事で自信をなくしていた私に上の子も下の子と同じように、「こんな僕でも愛してくれるの!?」と言うメッセージがある事を教えてもらい、私は子供達から愛情を必要とされているし、愛してもらっているんだと涙が出ました。

私は自分にも子供達にも「苦しくても我慢しなさい」と言葉で言わなくても伝えていたのかも知れません。こっちに来て勉強していく中で、当時の私はありのままの元夫を受け入れる器がなかった事に気付きました。回復しようとしない元夫を心の中で変えようとしていました。

今、現実に起きている子供の不登校、私の体調不良があってダルクにつながったからこそ気付けた事があります。その気付きは人の命に直結しているような大切なものです。元夫の病気で苦しんだ私ですが、元夫も薬物の被害者で、家族も被害者なんだと強く実感しています。

先日、テレビでスティービーワンダーの「私は全ての人を愛している」と言う言葉を聞いて、愛されているんだと素直に嬉しく思い、言葉の偉大さを知りました。これから苦痛に感じているステップ4を少しずつ頑張ってみようと思っています。

そして12ステップを極めたマッサージ師を目指して頑張りたいです。

仲間の話 ヒロ

 僕が初めて精神科を訪れたのは19歳の時でした。

シンナーが止まらず、母親と父親に連れられ、収容に近い状態で保護室に入りました。退院後も1週間もせずにまた再使用。その頃の家庭の中は、父親がアルコールに長年依存していて、年中シンナーと酒の臭いが家の中に充満しているような状態でした。

 小さい頃から父親と母親のけんかが絶えず、姉と二人で夕食の後に祖母の家まで非難していたのを思い出します。朝、茶碗が割れて、おかずが飛び散った部屋を見ながら学校に重い気持ちで行った事もありました。

 中学校入学と同時に情緒不安定になり、非行も始まり、中2になる頃には登校拒否をするようになり、部屋にこもるようになりました。その頃は母親が息子を不憫に思い、息子の世話をする事で家の中もなんとか回っていたのですが、父親が酒を呑み暴れ、僕もそういう姿を見て育ったせいか、15歳位からは僕も母親や父親に暴力を振るうようになりました。そんな父と僕を、母は必死で支え続けていたのだと思います。

 母親が父親を連れて精神科に行き、父親はアルコール依存症と診断され入院し、診察室の中で僕の話が出て、僕も薬物依存症と診断され入院しました。それぞれが自助グループに繋がり、母親も家族のグループに繋がりました。家族全員分のカルテがその病院にはあります。でもその頃が家族全員の転機だった様な気がします。

 それと同時期にダルクが九州に出来て、僕自身、仲間との接点が少しずつ持てる様になりました。それからも仲間との人間関係でつまずく度、薬と母親の財布と存在を求め、家に帰っていました。

そんな中、母親が家を手放し、僕は生活保護を立ち上げ、本格的に施設での生活が始まりました。病んでいた家族がそれぞれの回復の道を歩き始めた時期だったのだと思います。一時期は酒飲みの父親と、家を手放してしまった母親を恨んでいたことがありました。恨んで人のせいにしていた方が、僕自身、自分の問題を見なくて済み楽だっただけなのだと思います。

 自分の問題を日々ミーティングで卸し、過去、家族との関係がどうであったか少しずつ見れるようになってきました。過去は、共依存の関係の中に居ることだけを必要としていましたが、今は怒ったり、遠慮せず笑ったり出来る関係に新鮮さを感じ始めているところだと思います。

普段会うことはないけれど、家族が旅行したり、自分のために楽しみを見つけて生活しているのを小耳に挟むと、今はそれはそれで嬉しく思ったりもします。いろいろ苦しいことも有るけれど、それぞれが自分の問題を見ていることが希望なんだと思ったりもしています。

仲間の話 チビ

過去の痛みと向き合う

自分の事って、もうよくわかっているつもりになっていた私。

だって、ミーティングで話しているし、向き合ってきた・・長いこと。

だけど、まだまだ私には、未開のジャングルのように、隠された秘境があった。

なぜか、都合良く忘れていたいろんなことがふっと蘇る事がある。今になって、きれいに思い出され、クリーンで痛みと共にまるで、追体験している感じ。

薬を使って使って、使い続けたあの頃。私が付き合っていた彼は離婚歴のある人だった。深くも考えられない私は、自分さえ彼と一緒にいられれば他の人のことなど、どうでもよかった。狭い視野でしか物事を判断できず、何から何まで自己中心だった私。彼の元奥さんは彼と一緒に薬を使い、彼と一緒に捕まって服役。刑務所から出てきたあとは、精神病院を出たり入ったりの繰り返しになっていた。その二人の間には当時20歳になる女の子と17歳の男の子がいてお互いの祖父母が引き取って面倒を見ていた。そういうこと一切は、知っていたけど、知りたくなかったし、はっきり言って私にとって何の関係もない、面倒くさくてどうでもいいことだった。私がその彼と付き合うことが、その子供たちがどんな思いをするかとか、(特にその思春期真っただ中の17才の息子さんにとって・・・)私は考えも及ばなかった。自分と前の奥さんはもうとっくに切れているという彼の説明を鵜呑みにしたかったし、終わったことなんだと簡単に思っていた。

ある時、待ち合わせしていた彼がものすごく時間に遅れてきたことがあった。聞けば、私のところに来ようとした彼の車を奥さんが行かないで!と、車の前に身を投げて止めたという。そのまま彼は奥さんをはねてしまい病院に連れていったために遅れたというのだ。その時初めて、彼と奥さんはすっぱり切れたわけではなくまだつながりがあるのだということを、私は知った。そして彼に思いを残しているということも。だけど、私は目をそらした。奥さんがまるで、この世に居ないようにふるまった。深く考えるのもめんどくさかったし。考えれば、向き合えば、私が引かなければならなくなるから。薬があったから問題を見ないようにするのなんて全然平気だった。

・・・それからしばらくして彼女は自殺した。睡眠薬を多量に飲んで、自殺した。第一発見者は彼だった。恐ろしいことにその当時私は何も感じなかった。えっ?私のせい?まさかちがうよね、そんなの関係ないよね。強いて言うなら全て知っていてやった彼が悪いんだから。私知らなかったもの、会ったことのない人だもの。ちょっと、そんな目で見るのはやめてよ!いろんな思いをフリーズさせながら、今まで以上に薬にはまり、彼も私も向かい合うことにひたすら逃げた。怖くて幾重にも蓋をして生きてきた。

そのあと、彼とすごした日々の中に短い期間だったけど彼の娘さんと、彼のお母さんと一緒に住んだことがあった。そして彼の娘さんにねだられてグラタンを作ってあげたことを思い出した。

ママの作ってくれたグラタンが大好きだったから作って欲しい。と言われ私がかわりに作ってあげた。

あなたからおかあさんをとりあげて、ごめんなさい。あなたからおかあさんとのこれからすごす時間をとりあげてごめんなさい。ママのグラタンをとりあげてごめんなさい。

思えば、私はあれからいつか私も同じ目にあうんじゃないかと脅えながら時を過ごしていたことを思い出した。そしてまさに同じことが起こった。彼はまた新しい女を作って逃げ出したのだ。そして・・私は奥さんと同じ薬を飲んで彼の家で自殺を図った。

ただ、私は目が覚めてしまった。そこから更に苦しい日々が続く。もう、自分の力だけではどうしようもない、生きることも死ぬこともできない・・と底を着くまでまた何年も何年も、かかるのだ。苦しいことが私たちの周りで起こる。起これば起こるほど薬との距離は近くなる。あの頃の私は人間じゃなかった。まさに動物。素直にごめんなさいを言ったこともなく、自分がそうなるまで人の気持ちを考えたこともない、私はあの時何が出来ただろう。多分何もできなかったのだ。今10年以上の月日がたってから、まざまざと思い出した、この思い。でも、本当に忘れていたのかというと、違うと思う。自分で自分を執拗に許せなかったし、大っきらいだったのは胸の奥底にあったこの出来事達が私を責めているのだと思う。今だからあの頃とは違う自分で物事を見れる。私は、なかったことにするやり方をやめて、言い訳はしないで事実を事実と認めて、そして素直に向き合い謝りたい。あの時傷つけたことを。今は思い悩もう、後悔しよう、もっともっと考えよう。そしてその事実を体の中にただ、抱えて私は生きていかなければ、と思う。このことをミーティングで話したとき、いつものように仲間は黙って聞いてくれていた。私と同じように仲間が悲しく思い、悔やむ気持ちを分け合ってくれているように感じた。

実家を離れてもう6年がたつ。今では父母よりも他人の仲間たちの方が家族のように付き合える。母に電話してもなんとなく淋しい気持ちがフっと湧くのは私が薬を使っていた時と家族は時が止まったままなんじゃないかと思えるから?もっと本当の話をしてみたいと思うときがある。なんかお互い気を使ってそそくさと電話を切ってしまったり。本当は仲間の家族のようにプログラムの話やお互いの通っているミーテイングの話・・なんかがしてみたかったなあ〜なんて・・叶わぬ夢を見てしまう。

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